山里通信
木もれ日だより(2010年11月)

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【気候変動を乗り切って】
  気の遠くなるような記録的な暑さの夏から一変して、この秋は、冬が一気にやってきたような寒い毎日が続いています。そんな日には早朝の山麓の果樹園に入ると、冷気で手足がかじかみます。背景にそびえる高社山ではすでに初雪も降り、完熟ふじ特有の「蜜」も少しずつ乗り始めました。間近に迫った収穫を前に、小雨の中でも最後の作業は続けられます。
 以前にも書いたように、りんごは果樹の中では最も長く7ヶ月も樹上で完熟を待ちます。その間、花摘み、摘果、草刈り、夏期剪定、葉摘みと、季節を通じてりんご作りは続きます。「寒暖の差の大きい烈しい気候の場所ほどおいしいりんごが育つ」と言われていますが、この時期まで来ると、りんごには長い期間を一緒に乗り切ってきた仲間のような感慨さえ感じます。


【今は少なくなった「ハザ掛け米」】

 この地域では、9月の終わりに稲刈りを行います。刈った稲は、「ハザ」と呼ばれる鉄製の柵のようなものを田に立てて、そこで2週間ほど干したあと、脱穀し籾にします。
 しかし近年は、「自脱コンバイン」という大型の脱穀機械で刈り取る農家が増えてきました。コンバインで刈り取ると作業はとても楽です。乗用機械なので田を何度も往復して歩くこともなく、初めから籾だけを収穫するために、刈った稲束を拾い集めてハザに掛けたり、そこから一束ずつ降ろして脱穀する手間もありません。
 しかし、コンバインを使うと、乾燥は機械乾燥にならざるを得ません。米の美味しさは、天日に干している間に熟成されるといわれていて、かつては自家用米だけはハザに干していた家も多かったのですが、年々手間のかかるハザ掛けをする農家は減り、今では大半の家がコンバインを頼むようになってしまいました。
 今年は米は豊作だったと報じられていますが(長野県産は全国一品質が高かったそうです!)、その一方で農業の担い手は減り続け、秋の田の風景は変わり、生産現場は深いところで変容しつつあります。木もれ日農園では、田の面積もそれほど広くはないため、いましばらくはハザ掛けを続けるつもりです。


【高社山のふもとの、この村のこと】
 数年前、この地で柳沢遺跡というものが発見されました。いまから2000年前の弥生時代の遺跡で、当時ではめずらしい銅戈・銅鐸が同時に多数出土し、漢書に出てくるクニの形成をうかがわせるような人々の階層構造も明らかになり、「東日本では唯一」ということで全国ニュースにもなりました。
 しかし考えてみれば、不思議です。農園の場所でもある柳沢は、千曲川流域に形成された長野県全体を覆う長野盆地では北端にあたり、高社山が川近くまでせり出していて土地利用も難しい、いわば辺境の地。ここになぜ人が集まり住んだのか・・・。
 今はただ想像を膨らませるしかありませんが、平地と山が接するところ、いわゆる「里山」と呼ばれる場所が、当時から人々が生きていく上で、大切な意味を持っていたのではないかと思います。山麓に沿って風が吹き雨が降り、大地の高低差によって豊富な水が流れ川に注ぎ込む、標高差による植物相に応じて様々な野鳥や動物が訪れ棲息する、そんな生態系が自然にとっても人間にとっても、生存のために必要な環境条件を備えていたのではないでしょうか。
 その農村も今は高齢化が進み、子供たちの人数も減り、小学校の統廃合さえ検討されつつあります。私たちは「農村の過疎化」という言葉をたやすく口にしますが、失われようとしているのは2000年間続いてきた歴史だと思うと、あらためて時代の危機の深さを感じます。


【地域で共有するもの】
 夕方、山間の畑で遅くまで作業をして薄暮の中を下山してくると、西の空に夕暮れの残照が広がっています。山麓から望む地平線は、遠く北アルプスの稜線で、あるときは空一面のパノラマのような静かなグラデーション、あるときは地球を埋め尽くすかと思われる何万もの動物の群れのような雲のまだら模様と、空の色は日々変化します。
 そんな自分一人で見た印象的な光景も、数日後の村の寄り合いでは、「あのときの空の色はすごかった」などとひとしきり話題になり、あの空は村のたくさんの人が見ていたのだと後で気づかされたりします。都会に比べたら、はなやかなものは決して多くはありませんが、ここではそんな壮大な光景を地域のすべての人たちが共有しています。そのことの意味の大きさに、時々心を打たれます。


 木もれ日だより−2009年 11月
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